7月に読んだ本から

・片山 杜秀 著「未完のファシズム」(新潮選書)
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新聞の書評を読んで魅かれ、図書館にお願いして入れてもらった。書評にたがわず、流れるように内容が理解できる本だった。

タイトルだけではどんな内容なのか把握しにくいが、日露戦争からアジア・太平洋戦争敗戦までの軍隊に対するこれまでの固定観念を、有名・無名の軍人たちの文章にあらわれた思想や同時代の文学作品などの史料をふんだんに用いて解きほぐしていく。

日露戦争でのおびただしい犠牲と、国家を挙げての総力戦・消耗戦は、きちんと軍内部で反省されていた。第一次世界大戦の青島攻略ではその反省に立って(特に旅順攻略戦)、物量作戦を行った。しかし戦後、米英ソとの経済力の差は明白になっていく。「持てない国」である日本は、「持てる国」との勝てない戦争を敢えて行うわけには行かないのが軍幹部のホンネになっていったのだが、タテマエとしては、米英と戦争をやった時に絶対勝てないと公表する訳には行かない。軍の存続意義が薄れる。そこで「精神力」なるものによって条件付きでなら勝てることがある、と逃げた。あるいは膨大な時間をかけて満州を利用して「持てる国」に変貌し、しかる後にアメリカとの最終戦争を行うべしという壮大な論理を構築した石原莞爾のような軍人もいた。

だが、「条件付き」の限定が軍隊という組織の中でいつの間にか外れていく。日本軍は常にどんな相手とでも包囲殲滅戦ができるかのような雰囲気になっていくし、満州を傀儡国家とし、中国まで軍を進め、石原莞爾自身は思ってもみなかった米英との同時戦争に突入していく。そしてそのようなズルズルとした物事の進行は、明治憲法下での日本という国家がもつ構造的特徴によるものだった。実は明治憲法下の権力は分散構造になっていて、天皇であっても親裁は困難であった。

私なりにまとめるとこういった感じだが、歴史専門家が描く歴史書とは違って、文章が平易で、掲載される史料も頭に入って来やすい。本来、専門的なことを啓蒙するための本であれば、こういった文体と内容であって欲しい。この本で描かれる過去の日本のありかたは、現在の日本とも通底していると思いませんか?

・佐藤 優 著「紳士協定 私のイギリス物語」(新潮社)
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久しぶりに佐藤優の本を読んだ。いつも感心するのは、その記憶力である。「私のマルクス」と同じく青春時代の自分を中心とした告白本ともいえるが、四半世紀も前の出来事が克明に描き出されるのが不思議だ。私などは断片的な映像くらいしか思い出せないので、当時の会話内容とか感情を思い起こすことなど不可能に近い。ノンフィクションのような体裁でありながら実はフィクションを交えているのではないかと想像したりするのだが、仮に少し入っていたにしても相当部分は記憶の中にしまい込まれていたものの再現であろう。

「私のマルクス」が学生時代を扱っていたのに対して、この本では外務省での研修期間にイギリスで受けていた英語とロシア語の特訓がベースにある。ホームステイ先のイギリス人中流家庭での少年グレンとの交流は、独特の香りがする。

その後モスクワで勤務するようになった筆者とイギリス時代の人間関係は次第に変化していき、その中で後に筆者が巻き込まれる事件への予兆が見えてくる。

・茶谷 誠一 著「宮中からみる日本近代史」(ちくま新書)
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内大臣、侍従長、宮内大臣という戦前のポストがどのような意味を持っていたのか、日本史の教科書レベルではわからない。シロウトには、内大臣と宮内大臣の違いがまず不明である。
教科書や概説書では「オモテ」の制度としての内閣や議会の動きから政治の流れを解説していくが、天皇の補佐を執り行い、内閣などとは独立した部局としてこうした組織やポストが存在し、それが「ウラ」で歴史のさまざまな局面に関与していたことは大きな事実である。

特に内大臣、という内務大臣と一字違いながら大きく異なるポストは、もともと三条実美に属人的に与えられたポストであった。その後「元老」たちの意向によって内大臣は引き継がれていくが、「元老」の権力低下により、内大臣の色合いは独特なものに変貌していく。「元老」という訳のわからない風習が続いたこともおかしなことだが、それが明治・大正期の権力構造の要になっていたことがより不思議に感じられる。

ともかく、そういう隠然とした権力を持つ部門がどのように近代史に関わってきたか、というのがこの本のテーマである。読後、わかったような気にもなるが、ますます不思議さが濃くなっていくというのが私の実感。